国際会議で思うこと

先日,ある国際会議で研究発表を行った.
 
国際会議での発表は今回で3度目であるが,これまでの参加経験から
特に思うことを挙げて見る.
 
まず,学歴看板が通用しないという点が大きい.
 
国内での学会活動では,研究者に対する学歴による格付け意識が
まだ強いような気がする.
つまり,旧帝大が一番偉くて,私立はそれ以下という差別意識である.
研究の内容に関わらずである.
 
国際会議ではこれがまず違う.
 
世界中から研究者が集まって来るので,
出身大学や所属などより,研究の内容に関心が集まる.
 
つまり「〜大学出身だ!」というハッタリは一切通用しない.
だから旧帝大出身者をさしおいて国外研究者の関心を引いたりすると,
痛快な感じさえする.
 
「国際的」という言葉の良い面を実感できる.
 
それともう1つ印象深いこととして,
「理数系/人文系」の区別意識があまり無いという点がある.
 
日本では「理数系/人文系」の区別は絶対的なものであり,
この壁を越えて活動を行うことは殆どない.
 
特に私が住んでいる分野である人工知能の世界では
情報工学情報科学が基礎にあり,更に数理論理学が
その根幹を支えている.
 
この数理論理学というものが元々,哲学の分野から来ている関係で,
多くの哲学者が人工知能の研究に取り組んでいる.
 
日本風にいうところの「人文系」である哲学者達が,
数式や論理式を振りかざし,コンピュータを駆使して
研究を行い,発表を行っているのを見ると,
初めは奇異な印象を受け,新鮮な感じがしたものである.
 
学際的テーマはそもそも,理系/文系と分断できるものではない
という考えを私は古くから持っているので,
非常にラジカルな感触を国際会議ではいつも感じている.
 
理系/文系の分断意識は,もしかしたら日本風土独特の
差別意識から来ているような気もしている.
 
海外から輸入された学術文化が,もしかしたら
まだ日本に根付いていないのかも知れない.
とも思ったりする.

教員の勤務管理

大学教員の就労スタイルについて
多くの人が持っているイメージは.......
 
●授業さえ開講すればいい
 しかも遅く始めて,早く終わってもOK
●学内外のどこにいてもかまわない
 あまり出勤しなくていい
 
というところではないだろうか.
 
私の勤める大学では今年度からかなり
厳密な就労管理を始めた.
 
1日の行動予定を分刻みで表にして
前もって当局に提出する.
 
一週間当たり40時間の学内滞在を義務づけ,
一週間の間に4日の出勤を義務づけた.
それに個人研究室の鍵を守衛所で管理することを
原則とし,教員の出勤と帰宅の時刻を記録する.
 
この管理体制に対して何人かの同僚が
悲鳴に近い不平を口走っている.
 
この事態をどうとらえるべきか.......
 
私は大学教員になったのはごく最近であり,
20年近く技術職や事務職としてのサラリーマン生活を
送ってきた経緯から,今年度からのこの体制も
辛くも何ともない.
 
同僚からの痛切な不平を聞くとき,私は口では
「ほんと,大変なことになりましたよね〜」
と応えているが,しかし実は心の中で私は,
「ぬるいな〜こいつ...」
「甘えんじゃね〜よ...」
とつぶやいている.
 
中には大学教員の大義と管理方法に関して
滔々と論じて語る先生もおられるが,
上記の制限は,はたして本当に法外なものだろうか?
 
この制限の下でも,他校への非常勤講師としての
就労は認められており,学外活動も届け出ることによって
正規の勤務時間として認めてもらえる.
 
「本当はサボりたいだけだろ〜」 と突っ込まれても
常識に満ちた反論ができるのだろうか?
 
給与をもらって勤務するということがどういうことか.
授業以外の時間に在校生と接することがいかに重要か.
それがわかっているなら不平の言葉は出ないと思うが....
 
幸いにも口先の不平ばかりで,
実際には全ての教員が大学の管理に従っているので
大きな問題にはなっていないが......
 
もう少しいろんな人の意見を聞いてみようと思う.

今どきの学生指導

「今の学生の年齢は7掛けと思え」
 
これは私の大学のトップ経営者が
最近発した言葉である.つまり,
 
実際年齢  精神年齢
  20  →  14
 
ということである.
 
ちょっと過激な印象を受けた.
 
その直後に教育方針の表明があったが,
それによると,学生を卑下する意図は全く無い
ことがわかったので少し安心した.
 
強い愛情表現の1つなのかもしれない.
 
その経営者の発言を私なりに解釈し,
大体次のように私は受け止めている.
 
● コミュニケーションの貧困が若者の
 精神的姿勢を崩している.
 
●コミュニケーションの少なさが若者の
 心を冷めさせている.
 
●悪しきコミュニケーションが若者の
 心を汚している.
 
学生と教職員の距離を縮め,教職員が率先して
思慮深さや「徳」を示すことで学生の「心の温度」
を上げることが重要であるということか.....
 
今年度のオリエンテーションの手厚さと
「ホームルーム」の導入は,
まさにこれを実現しようとしているように思う.
 
実際,今年の学生は例年よりも少し明るく元気な
感じがする.
 
他大学から見ると私の大学の方針は
非常に特色が強く映るだろう.
 
恐らく,この教育方針に異論を唱える人もいるだろうが,
きっと次のような論を唱えるのではないか.
 
「大学生を大人扱いせず,自主性・自律性を育てない」
 
しかし,ちょっと違うような気がする.
 
豊かなコミュニケーションは,人間を豊にすると思う.
 

                                • -

 
年長者はだれしも多かれ少なかれ
若い人に対して批判的な意見を持っている.
 
特にできの悪い教師ほど,
教育成果の低さを学生のせいにしているというのが
私が若者であったときから持っている考えである.
 
「責任ある指導」の1つの形が実現できたら
いいと思う.
 
これからが正念場かもしれない.

宿泊オリエンテーション

私が大学生のころにはあまり無かったような気がするが,
最近では多くの大学で新入生に対して
「宿泊オリエンテーション
というのを行っているようである.
 
先週末にこの「宿泊オリエンテーション」というのがあった.
修学旅行のような気分で教職員と学生がともにイベントを
開いたり就学に関する各種の説明会を行う.
 
このオリエンテーションの後,なんとなく学生たちとの
距離が縮まったような気がしている.
 
キャンパス内での人間同士の距離.
それがキャンパス生活を円滑に送るための重要な
要素なのだろう.
 
学生を甘やかすことなく,適切な範囲で可能な限り
学生と教職員との距離を縮めるべきだと考えている.
 
今の職場に勤めて1年が過ぎたが,今の若い人たちの性質が
少しわかったような気がする.

姿勢や態度の教育

新年度がはじまった.
 
私の職場は,今年度から
学生への生活指導を強化する方針で動き出した.
年度初めのオリエンテーションも例年になく手厚い.
 
まるで高等学校のようにクラス担任の制度を導入し,
週1回,授業の1コマとしてホームルームを設けた.
 
これを客観的に聞くと,まるで大学生を大人扱い
していないように思える.
 
「大学生にもなって...」
 
という声が聞こえてきそうな感じである.
 
しかし,そのせいか新入生がなんとなく元気で
明るい感じがする.
 
私個人の意見としては,非常に良い教育効果を
あげることができるのではないかと考えている.
 
学生と教職員の日常のコミュニケーションを
改善すれば学生のモチベーションも上がるのでは
ないか.そう思うわけである.
 
本日,私の今年度最初の講義を開いたが,
講義終了時の「それでは終わります」という
私の言葉に対して,学生たちから
「ありがとうございました」という
声が返ってきた.

卒業式

私の勤める大学では先週末卒業式があった.
卒業式自体はつつがなく終わったが,
印象に残ったのはそのあとの卒業記念パーティーだった.
 
私は授業以外ではあまり学生と深く接する立場の
教員ではないが,それでもパーティーのときは
数人の学生から感謝の言葉をもらった.
 
非常にうれしかった.
 
この年度は着任1年目ということもあり,非常に忙しかったが,
学生からの感謝の言葉は最大の癒しであった.
 
来年度もがんばれそうである.

「いじめ」についてのある記述の紹介

久しぶりのブログである.
そもそも日記なので頻繁に書かないといけないのだが,
忙しいとそこまで手が回らなくなってしまう....
 
今は年度末で授業はないが,次年度の準備と
論文の執筆,それに休憩として読書をしている.
 
最近読んだのが養老孟司先生の話題作「超バカの壁」.
 
その中にいじめについての記述があり,
非常に納得させられるところがあった.
 
いじめは学校に限らず,大人の社会でも深刻な問題であり,
マスメディアでもいじめについてのコメントを頻繁に
目に(耳に)する.
 
ただ,いじめに関する多くのコメントや意見を聞いても,
発生メカニズムに関するクリアな部分はなく,
いわゆる「評論」に終わっているような気がする.
 
そんな中,「超バカの壁」にいじめの発生メカニズムに
ついてかなり詳細な記述があり,とても興味深を引かれた.
 
もちろん著者はいじめ問題の専門家ではなく,
あくまで,自身が経験した1つの状況の紹介ではあったが,
「いじめられる側」の問題についての明確な観察と分析
があった.
 
要約すると,いじめを受けたその人は他人との対話性が
低く,他人から見ると「自己顕示的」でありながら,
強面でもなく,それが災いしていじめを受けていたという
感じである.
 

              • -

 
もちろん,ひどいいじめのケースにおいては,
いじめられている側は被害者であり,その人たちを
責めるべきではないが,先の本のように明確な現象の分析
はもっと行われるべきだと思う.
 
結局いじめはコミュニケーションの中で起こるアクシデント
であり,いじめをする側にも受ける側にも原因がある.
 
客観的な人間関係だけを見ていじめを論じるより,
個人の内面や他者とのコミュニケーションの分析に
基づいた研究をもっと行うべきではないか.
 
それがいじめの防止につながると思うのだが.