「述べる」ことの楽しさ

学生の指導をする上で苦労することに、
「文を書かせる」というのが大きい。
 
そもそも、言葉を発するというのは最も日常的な行為であり、
言葉を並べるという行為には慣れているものの、
まとまった構成を持つ「論述」というものには
なかなか日常生活の中では縁がないのかもしれない。
 
多くの学生が、文を作るのが苦手であるが、
必ずしも学生の知的能力が低いというわけでもない。
 
事実、教科内容について学生から質問を受けて
相談をする場合に感じるのだが、会話というレベルでは、
多くの学生はかなり知的である。
 
その学生の発話から見て取れる知的習慣や癖、好み
などをつかむと、かなり深い論理展開が可能である
というのが私の感想である。
 
ただ、レポート課題などに取り組む段になると、
とたんに手が止まってしまう。
 
溌剌と思いつくことをしゃべっていた学生が突然、
「...で、 何書けばいいんでしょ〜?」
となってしまう。
 
自分の言いたいことを、「文」という一次元的な
文字の列に再構成するときにフリーズするらしい。
 
頭の中には知的活動のための素材がかなりあるのに、
それらをつなぎあわせる「デザイン」の力が
薄弱なのだろう。
 
大学の教員はそんな学生に卒業論文の指導を
しなければならないわけで、非常に苦労が多い。
 
まぁ、レポートや卒業論文となると、
ある程度「型」というものを押し付けてしまうことで
機械的に指導することはできるが、
それでは中身が薄くなってしまう。
 
「しゃべる」ではなく「述べる」ことの楽しさ
と技術をなんとか伝えられないだろうか。
 
課題である。