「国際」感覚

近年,日本中の大学の学部・学科の名称に
「国際〜」というものが多くなってきた.
私は結構,古い感覚の持ち主で,
はじめはどんな学部・学科なのかよくわからなかった.
 
「国際〜」.何だか「明るい」「楽しそうな」
イメージのある言葉である.
 
でも私個人としては「国際的」という言葉には
あまり「明るい」「楽しそうな」イメージはない.
 

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昨日の夜のTV.
筑紫哲也の「原爆」テーマの特集番組を見ていた.
 
原爆開発の「マンハッタン計画」の科学者の1人が広島に来て
被爆者と対談していた.
 
被爆者は涙を流しながら,米国人科学者に対して
謝罪の言葉を求めていた.
米国人科学者は,はっきりと「謝罪はしない」と
返答していた.
 
私は,この場面に「国際的」というイメージを想起した.
 
日本人の感覚では,加害者はとにかく謝罪をするものである.
しかし,米国人の感覚では,「謝罪」するということは,
全面的に自分の罪を認め,全力で償いをすることを意味する.
 
両者の間で「謝罪」の持つ意味が全く違うのである.
まさに「国際的」である.
 
私は日本人なので,被爆者の側の見方をするべきだと
「感覚的」に思うのだが.....
 

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ときどき,BBCのネット放送「World Service」を聞いている.
頻繁に北朝鮮の問題が報道されている.
ただ,日本人拉致事件についての内容については,
私はまだ聞いたことがない.
国内メディアではあれほど拉致事件が取り上げられているのに.
 
ここでも私は「国際的」なものを感じた.
 
まあ,過去に日本が朝鮮半島を支配していた歴史的事実まで
考慮すると,拉致事件について諸外国からの同情や関心を
期待するのは間違いかもしれない.
 
私は日本人なので,拉致被害者の側の見方をするべきだと
「感覚的」に思うのだが.....
 

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日本人であるからには,民族的意識から,日本の見方をするが,
「国際的」になるためには,民族意識や屈辱感をひとまずおいといて,
きわめて論理的に相手を理解しなければならない.
 
広島の原爆記念碑にきざまれたメッセージ
「過ちは繰り返しませんから」
は誰からのメッセージなのか?
とても「国際的」な気分である.....